岩手県奥州市。
そこが僕の生まれ故郷だ。
実家の周りは田んぼや畑しかなく、コンビニすらない。
唯一あるのは公民館と自動販売機ぐらい。
最寄りのコンビニへは車で20分以上はかかるし、少し歩いた先の山では、野生のクマやキツネまで出る。
今回はそんなド田舎で生まれ育った僕が、どうして期間工の道へ進むことになったのか、今までの人生を振り返りながら書き記しておこうと思う。
声優になりたかった

僕には兄が一人いる。男兄弟の末っ子だ。
兄は既に結婚をしていて、子供が二人いるお父さんになっている。
だが僕はまだ結婚もしていないし、当然子供もいない。(する気もないし、作る気もないが)
兄は大学まで行き、卒業と同時に就職したようだが、僕は大学へは進学しなかった。
いや、できなかった、というべきか。
はっきり言ってアホだったのだ。
大学へ入学できるほどの学力がなかった僕は、兄とは違う方向へと進み始めた。
中学生になった頃から憧れていた「声優」という職業だ。
その頃は「声優」という職業が広く認知されてきており、若い人がなりたい職業のトップランキングに入るほどの憧れのものとなっていた。
今まで芝居なんてやったこともなかったのに、小さい頃から父と見ていた「金曜ロードショー」の影響で、声優がセリフを吹き替えしていることを知り、自然と興味が湧いていった。
その当時は、声優という職業で食べていけるのか、といったことはまるで考えていなかった。
ただなりたい、やってみたい。
その気持ちだけで、声優になるという夢を叶えようとしていた。
そして地元の高校を卒業したと同時に、東京へと上京。
声優の専門学校である「東京アナウンス学院」へと入学したのだ。
東京アナウンス学院で芝居の面白さを知った

初めての東京。
初めての一人暮らし。
何もかもが新鮮で、そして訳が分からなくて困惑した。
東京の電車の路線図はまるで迷路のようになっていて、ターミナルを歩いていたら迷子になってしまいそうだった。
専門学校にはあらゆる都道府県から上京してきた、同じ夢を追う同年代の学生たちがいた。
みな自分が選んだ好きなことをやれていて、目がキラキラしていた。
僕も最初は慣れない東京暮らしで困惑していたが、学校で芝居の勉強をしているうちに芝居が楽しくなり、毎日がイキイキとしていた。
声優の専門学校に入ったからといって、いきなりマイク前でアフレコの練習をしたりはしない。
最初の1年間は、まず舞台の芝居から始めるのだ。
腹式呼吸のやり方や、外郎売りの練習、シェイクスピアのマクベスを題材とした芝居や、即興芝居など。
まずは舞台の上で演者としての基礎を固め、それからマイク前での芝居を演じるのだ。
舞台の上でまともな芝居ができない演者は、マイク前でも演じられるわけがない。
逆を言えば、舞台上で目をみはるような芝居ができる演者は、マイク前でも説得力のある芝居を見せてくれる。
洋画の吹き替えを担当する声優が、基本的に舞台役者中心で構成されているのもそれが理由だ。
ただアニメ絵のキャラクターに合わせて、声色を変えてセリフを喋ればいいだけではないのだ。
2年間芝居漬けの生活を送り、専門学校を卒業した僕は、在学中に参加した「声優オーディション」で声をかけてくれた事務所に特待生として入所した。
成人を迎えた20歳の頃だった。
声優事務所に入所

声優事務所と一言で言っても、別にビルの会社というわけではない。
マンションの1室を借り切ったような個人事務所だ。
そこは事務所兼、養成所となっており、事務所の所属となって声優になるという夢を叶えるために、日々勉強にきている人たちもいた。
はっきり言ってしまうが、夢が叶う可能性が限りなく低い、事務所の経営費用を賄っているだけの人たちだ。
僕は特待生という扱いだったので、入所金が無料だった。
だが他の人達はそうじゃない。
その料金を支払ってでも、彼らは夢を叶えるために養成所に通い、レッスンを積んでいた。
仮に事務所の目に止まって所属となったとしよう。
だがまだ生活は維持できない。
所属となったとしてもそれは「預かり所属」というもので、正式所属ではないのだ。
「預かり」という状況で現場に出て実績を積み、声優としての経験を積んだものだけが「ジュニア声優」となれるのだ。
そしてジュニア声優になれたとしてもまだ地獄は続く。
そのジュニア声優のギャラは一律「1万5千円」だ。
セリフが「おはよう」の一言であっても「1万5千円」と聞けば、割にいいと思うだろう。
だがこれが朝の10時にスタジオに集合して、解散するのが夜の12時だったら。
その間、ずっとセリフを喋りっぱなしだったら。
それを月に20日間繰り返しても、マネージメント代などが引かれて手取り「25万」超えれば御の字。
しかし月に20本も仕事が入ることなどまずない。
あなたがディレクターやプロデューサーなどの責任を負う立場だとしたら、どこの馬の骨かも分からないペーペーをいきなり起用しようとするだろうか?
いやしない。
僕なら既に名前を知っていて、ファンがたくさんいる声優を起用する。
だから新人声優にはまず仕事は回ってこない。
月に2本あれば良い方で、5本も入れば奇跡に近い。
だから声優の正式所属となっても、まともに生活が維持できずにアルバイトを続けるのだ。
いつ声優の仕事やオーディションが入るかも分からないので、会社員の仕事に就くこともできない。
僕も事務所に入って活動していたが、事務所を辞めるまでずっとコンビニの深夜アルバイトを兼業していた。
深夜働いて、朝になったらそのまま寝ずに事務所の稽古に向かうのだ。
約3年、夢を叶えるために耐えて奔走していたつもりだが、ある日事務所から戦力外通告、つまりクビを言い渡された。
体内時計がめちゃくちゃになり、毎日の生活に疲れ果てていた僕は、もうこんな先の見えない生活を続ける気力もなく、声優という職業を諦めた。
23歳の頃だった。
派遣会社として職を転々
声優という夢を諦めた僕は、これから何をやっていけばいいのか、まるで分からなくなっていた。
それほど芝居の魅力に取り憑かれた僕は、演じるということに夢中になっていたのだ。
しかし蓋を開けてみれば現実は厳しかった。
好きなことで生きていく。
Youtubeの広告でよく見る言葉だが、僕には胡散臭いの一言に尽きる。
好きなことだけでは食っていけない、生活が維持できない。
これが僕が実際に行動し、体験して得た結論だった。
もう夢を追うのは疲れた。
普通に会社員をやって、一般的な給料をもらい、まともな生活がしたい。
とりあえず声優という仕事を通じて得た「喋るスキル」を活かそうと、コールセンターの仕事に応募してみることにした。
派遣会社を転々とする暗黒時代の始まりである。
コールセンターで会社員の経験をした

今まで仕事の経験と言えば、声優の芝居か、コンビニの接客ぐらいだった。
だからビルの会社の中で働く「会社員」というものにちょっとした憧れがあった。
派遣会社で面接と登録を済ませた僕は、渋谷にあるコールセンターの会社で働くようになった。
そこではたくさんの人がわぁわぁ話しながら、目にも止まらないブラインドタッチでキーボードを叩いていた。
働いている人には色んな人がいた。
売れないバンドマン、バツイチ子持ちの主婦、コールセンターを10年以上やっている人などなど。
パソコンを使って仕事しているということが、何だか会社員の仲間入りになったように思えて、妙な高揚感を感じたのを覚えている。
そこでは何だかんだで3年ほど続いた。
3年働いているうちに、はっきり言って同じことの繰り返しに飽きていたのだ。
だがもう声優には戻りたくはない。
手に職をつけることができて、かつ人並みに生活が維持できる仕事をしたい。
そう思った僕は、声優ともう一つで迷っていた仕事の「ゲームクリエイター」を目指してみることにした。
ゲームプログラマーを目指した

ゲームクリエイターを目指すといっても、その頃には年齢も20代後半となっており、当然ゲームを作るスキルもなく、貯金もなかった。
皮肉なものである。
生活が維持できないから、という理由で声優を辞めたにも係わらず、派遣社員として3年働いたのに貯金がまったくといっていいほど無かったのだ。
だが行動力があるのが僕の良いところだ。
いや、間違えた。
後先考えないのが僕の悪いところだ。
金がある、ないなど関係ない。
ないなら教育ローンを組んででもゲームクリエイターの学校に入学し、スキルを積んでゲーム会社に入ってみせる。
そう思って僕はジャックスで学費ローンを組み、「バンタンゲームアカデミー」に入学したのだった。
借りた金額は、学費2年分の「300万円」
年利5%の10年ローンだ。
これがきっかけで、借金に追われながら会社を転々とする人生どん底を味わうこととなる。
バンタンゲームアカデミーでお勉強
今思えば、体験授業をやっておけばよかったと思う。
なぜならプログラミングが全くといっていいほど向いていなかったからだ。
プログラミングというのは、たった一文字書き間違えただけでも容赦なくエラーを吐き出し、処理が止まってしまう。
i(小文字のアイ)
l(小文字のエル)
はっきり言ってこんなの見分けがつかない。
そしてパソコンはこれをはっきりと教えてくれない。
エラー情報がひどく抽象的なのだ。
エヴァンゲリオンのように頭の中で想像しただけで処理してくれればよかったのだが、プログラミングはそうじゃなかった。
1から10まで手取り足取り処理を書いていき、そこにケアレスミスがあっても自分で見つけ、直してあげなければならないからだ。
一言で言えば「融通が利かない」というやつだ。
しかし高い学費を払った以上、すぐに辞めるわけにはいかない。
勉強が足りていないからだ、慣れていないからだと自分に言い聞かせ、派遣社員やアルバイトをしながら2年間みっちりとゲーム作りに奔走した。
そして晴れて卒業作品としてゲームを1本仕上げるまでに成長し就活を始めた僕は、池袋にあるゲーム会社に滑り込みで就職するのだった。
だがそれは「正社員」ではなく、「契約社員」としてだった。
手取りは月に16万円。ボーナスはなし。
さらに社内でゲーム開発ができるわけではなく、他の会社に出向するという、派遣社員のような働き方だった。
会社を選べるほどの恵まれたスキルもなかった僕は、渋々この会社に入社した。
これがきっかけでブラック会社で心を病み、重度のトラウマを抱えることとなる。
ゲーム会社で心を壊した

出向先となったのは、なんと神奈川県の「桜木町」だった。
当時僕が住んでいたのは、西武池袋線の「大泉学園」というところ。
そこから通勤となると、ドアtoドアで片道2時間かかる計算になる。
往復で通勤に4時間だ。
その時点で辟易としていたのだが、入社早々辞めるわけにはいかない。
しょせん契約社員だし、契約が終わるまで耐えようと思っていたが、ことはそう単純ではなかった。
そのゲーム会社ではスマホゲームの開発を行っていたのだが、与えられた仕事がとても学校を出たばかりの人間がこなせるとは思えない、超激むずの仕事だったのだ。
分かりやすく例えるなら、自分が家を設計するとなった場合を想像してみてもらいたい。
家族4人が暮らせる2階だけの戸建て、と言われて即座に設計できるだろうか?
土台はどう作るか、外壁はどうするか、間取りの計算はどうすれば、階段の角度を考えるとこの部屋の位置は…などなど。
お分かりだろうか。
パニックになるのだ。
何をどうして、どうすればいいのかがまるで分からない。
だが仕事のやり方を聞こうとしても、出向先の人たちはまるで助けてくれない。
知らん顔なのだ。
あげくの果てには「もっと苦しんで下さい」とまで言われた。
出向元の会社に助けを求めても、出向先とちゃんとコミュニケーションとれてるんですか?
と、さも僕が意思疎通できていないからと言わんばかり。
誰にも頼ることができない。
自分で何とかするしかない。
そう思ってGoogleでひたすらやり方を検索して、実装できるように頑張った。
家に帰る時間は深夜1時が当たり前になっていた。
終電に走って飛び乗るギリギリまで、残業に追われる生活を繰り返していた。
そんなある日、僕の心は完全に壊れてしまった。
気づいたら車が行き交う横断歩道を赤信号で渡っていたのだ。
自分がおかしくなっていると自覚した瞬間だった。
ゲームプログラマーも挫折

元々プログラマー自体、向いていないと思っていた。
今思えば、なぜ向いていないと直感で分かっていたのに、途中で路線変更しなかったのだろう。
残ったのはブラック会社に殺されかけたトラウマと、多額の借金だけだった。
もはや心身ともに疲れ切っていた僕は、出向元のゲーム会社を辞め、ゲームプログラマーという道も諦めた。
しばらく働かずに過ごしていたのだが、家賃や学費ローンなどの支払いは毎月やってくる。
生活費もクレジットカードに頼って生活していたため、次第に督促の電話が1日に何度もかかってくるようになった。
しかしその電話は全て無視。
僕は自暴自棄になっていた。
そんなある日、普段は電話など滅多にかけてこない親から何度か着信があった。
だが誰とも話しをしたくない僕は、それすらも無視するようになっていた。
親が駆けつけてきた
それから数日後、玄関のチャイムが鳴った。
ついに督促電話だけじゃなく、家にまで来やがった!
そう思った僕は居留守を決め込んだ。
どうせ面と向かって話しをしたところで、金なんかないんだ。
話しをしたって意味はない。
だがなぜか、玄関の鍵が開いた。
その瞬間、入ってきたのはなんと僕の親だった。
クレジット会社の電話を無視し続けたことで親の元に連絡が行き、安否確認のために駆けつけてきたのだ。
岩手から、当時僕が住んでいた東京までである。
それをなんと車でぶっ飛ばしてきたというのだ。
いよいよやってしまったと思ったが、怒りよりも部屋で死んでいなかったこと、無事に生きていたことに喜んでくれていた。
安否確認を済ませた親はクレジット会社に連絡をし、そのまま東京のホテルで一泊してまた岩手へと帰っていった。
そこからはさすがにまずいと思い、また働くようになった。
しかしゲーム会社はもう嫌だ。
次にまた働いたら、今度こそ殺される。
そう思った僕は、またしても派遣社員としてコールセンターで働くことにしたのだった。
期間工の道へ

コールセンターで働くこと半年。
ようやく督促の電話がかかってこなくなるまでに回復した僕は、これから先のことを考えた。
今の派遣の働き方では、いつまでたっても借金は完済できない。
それどころか貯金もまともにできない。
借金を一気に完済できるほど稼げて、生活費も少なく済む仕事を見つけなければならない。
寮だ。
寮を用意している会社で働けば、今払っている家賃分を丸々返済に回せるようになる。
そう思いネットで色々調べた結果、見つけたのが「期間工」という仕事だった。
一番最初に目に入ってきたのが、自動車メーカーの期間工求人だった。
トヨタ、スバル、日産などなど。
その中で、昔から車のデザインが好きだったのと、当時住んでいた東京から近かったという理由で「スバル」に応募してみることにした。
さらに僕が目を引いたのは「入社祝い金」というものだった。
入社するだけで、何十万円という大金が簡単に受け取れるという待遇に強い魅力を覚えた。
浪費に使わずにこれを一気に返済に回せば、この借金地獄からより早く解放される。
もはやためらう理由はない。
僕はスバルへ応募し、次の日には面接を終え、無事採用となった。
スバルで2年働き、借金完済。

正直言って、今までやってきた仕事に比べれば、期間工の仕事は余裕だった。
なぜなら心理的負担がほとんどないから。
声優のように、まともに生活が維持できないわけではない。
ゲーム会社のように、心が壊れるまで働かされることもない。
スバルで気づいたら2年働いていた僕は、借金も全て完済し、貯金も100万円貯まるまでに回復していた。
正直貯金が100万貯まったのは、人生でこれが初めてだ。
100万なんて夢物語だと思っていた。
だが貯まった。
期間工という道を選んで、ただ続けただけで。
この頃には僕はもう30代になっていたが、20代の頃に比べれば明らかに人生が好転し始めていた。
いや、ただ単に20代が暗黒時代だっただけかな?
そして今はトヨタで期間工
もうすぐトヨタで働くようになってから1年が経とうとしている。
正直正社員になるか、と聞かれたらなる気はないと思っている。
どうしても会社でひどい目に会わされたというのがトラウマになっていて、正社員として一生勤めるという気にならないからだ。
僕の本心としては、もう会社では働きたくない。
これからは自分のビジネスで働いていきたいと思っている。
だがそのためにはまだまだ軍資金が足りない。
トヨタは仕事はキツイが、周りの人はみな良い人ばかりだ。
仕事がキツイから、という理由で辞めるきっかけには今のところならない。
まだまだお世話になるつもりだ。
僕の最終目標は「FIRE」すること。
大金持ちになって、経済的自由を得ることだ。
お金に散々苦しめられてきたからこそ、その目標を抱いたのは必然とも言えるが。
ちなみにトヨタに赴任する前に一度実家に帰省していたのだが、スバルで稼いだお金で少しばかり親に工面した。
次は札束渡して驚かしてやろうかなと思っている。
感謝
ここまで読んでくれてありがとう。
ここまで読んだということは、きっと既に期間工として働いているか、期間工になるべきか悩んでいる人なのだろう。
僕がはっきりと言えることは、期間工を続けたことで人生が好転し始めたということ。
だがもちろん向き不向きもあるだろうし、無理強いするつもりはない。
でも僕と同じように仕事で心を壊した経験とか、借金の督促電話に怯える経験をしたことがあるだろうか。
それに比べれば期間工の辛さなど、たかが知れている。
期間工の仕事はキツイとみな口を揃えて言うが、だがその代価である報酬は全く見合っていないと言えるだろうか?
家賃が1円もかからずに生活が維持できて、かつ毎月の給料とは別に満了金というボーナスももらえて、さらに有給もちゃんと使える。
それと同等の条件の仕事を探そうと思っても、何かしらの職務経験やスキルが必要とされるだろう。
もしそんなスキルが既にあるのなら、最初から期間工という仕事を検討もしないはずだ。
期間工は続けてさえいれば、それに報いる報酬を用意してくれる。
フル満了までこなせば、節約効果もプラスして貯金1000万超えることだって不可能ではないのだ。
少なくとも3年でそれだけ貯金できる仕事がこなせるほどのスキルも経験も、僕にはない。
きっとあなたもそうだろう。
期間工という働き方を悪く言う人も一部いるだろうが、少なくとも僕はそうは思わない。
なぜならこの仕事に出会っていなかったら、今も人生詰んでいただろうから。
僕は期間工という仕事に感謝すらしている。
人生を好転させるきっかけを与えてくれたのが、この仕事だったからだ。
あなたに夢や目標があり、それが期間工を続けることで達成できるのなら、僕も同じ期間工として応援したい。
ではまた。

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